私の半生

広島県生まれ。

幼少期はホームステイを受け入れていたこともあり、海外の人と触れ合う機会が多かった。

言葉や文化の違いなどお構いなし。甘えん坊で人懐っこい子どもだった。

当時のことはほとんど覚えてはいないが、今の自分を創り上げた時間だったと思う。

私の人生に1番大きな影響を与えてくれたものに小学5年生の頃に出会う。

レスリングだ。

でも、勝った記憶はほとんどない。練習も週に1回、お遊び程度だった。

それでも高校は親元を離れてレスリングを続けることを選んだ。それまで色んな習い事をしてきたが、全てが中途半端だった。

そんな私にとってレスリングは、唯一の居場所だった。同じクラブから高校のレスリング部に進んだ先輩たちがとても輝いて見えた。

そして、あるヒーローの存在が私の背中を押してくれた。あの言葉は一生忘れない。

だから、レスリングを選んだ。でも、本当はレスリングしかすがりつくものがなかったんだと思う。

ただレスリングを”知っているだけ”で選んだ道は、想像以上に険しかった。物事に対する中途半端な姿勢、甘え腐った根性は、高校時代に徹底的に鍛えられた。

何度も逃げ出したいと思った。試合にもすぐ負けた。

それでも高校レスリングの先生方、キッズレスリング時代の先生方、そして部員や友達、そして何より家族の支えで続けることができた。厳しい練習や試合に向けた減量の経験など、相手に勝つこと以上に、己に克つことを学ぶことができたように思う。

そして、先生方の御尽力のおかげで大学でもレスリングを続けることができるようになった。

そこにはもう中途半端な自分はいなかった。

練習は険しかったが、毎日が充実していた。高校時代は部員も数少なく、指導者が不在の時も多かった。

それが全国でも名を馳せた先輩方に囲まれ、同級生、そして多くの後輩たちにも恵まれ、毎日が刺激的だった。

レスリングで得た経験は私にとって何事にも変えがたいものだ。

日本レスリング協会 記事
「立命館が18度目の優勝!初めて伊藤敦監督の体が宙を舞った」

 

 

「将来の夢はなに?」

「何の仕事がしたい?」

私は生徒によく聞いてしまうことがある。そして、「早く見つかるといいね」なんて無責任な言葉をかけてしまう。

じゃあ、私自身は将来の夢はあったのか?今の高校教師としての姿を想像できていたのか。

答えはNOだ。自分の夢だとか、何の仕事がしたいとか全く分からなかった。

大学3年生になると、周りは進路を考え始める。大部分は就職、一部は大学院を目指していた。

私は一応、教職コースを取ってはいて、口では「日本の教育を変えたい!」などと言ってはいたが、教員採用試験に向けて勉強するでもなく、就職活動を始めるわけでもなかった。

ただ、なんとなく毎日を過ごしていた。大学時代、必死に勉強に打ち込んだ思い出もない。

 

でも、胸の中に秘めていたことが1つだけあった。

「海の外の世界が見たい」

日本という空間の中で、同じ考え方や価値観だけじゃなく、もっと大きな世界を感じたかった。

やはり幼少期の微かな思い出が蘇ったのだろう。リアルな世界を見てみたい。色んな人に会ってみたい。

いろんな人種を文化を言葉を目の当たりにしたい。

新卒就職という道を捨て、海外に行く道を選んだ。今しかチャンスはない。

響きはいいが、確固たるビジョンを持っていたわけではない。語学も全くできない。どこの国で何がしたいのかも分からなかった。

「海外に行きたいのは、現実逃避なんかじゃない。」 必死に自分に言い聞かせた。

JICAの青年海外協力隊という2年間のプログラムも本気で考えたが、

最終的には先輩から語学とレスリングが一緒にできる環境を紹介してもらい、

2011年カナダのカルガリーへ渡った。人生の大きな転機だった。

私は今でも覚えている。両親に別れを告げ、搭乗口へ向かった1人で瞬間ガッツポーズをしたことを。

自分が唯一やりたかったこと。幼少期からずっと心にあった、あの思いがついに実現した瞬間だった。

留学に行ったり、海外旅行に行ったり。周りを羨ましいと何度も思った。

でも、自分にはレスリングがあったから。理想は胸にしまい、マットに向かう日々だった。

たった1人で大学の留学センターに行き、留学の資料を眺めながら、外国人と流暢に英語で話す日本人たちを横目で見ながら、

自分には遠い世界だなと思っていた。英語なんて一生話せないと思っていた。

遠回りをしたけれど、ずっと胸にあった思い。その瞬間、私の目の前に広がっていた。

カルガリーでの毎日は例えようもないほど刺激的だった。多人種で溢れかえる街中、バスに乗り込むとそこはまるで小さな地球のよう。

黒人もアジア系も白人も当たり前のように存在し共存していた。語学学校で出会った全ての友達に興味津々だった。

最初はブラジル人の友達ができて、ランチの時はずっとポルトガル語を聞いていた。韓国語やスペイン語も話してみた。

ある夜、私は急に涙を流してしまったことがある。友達の家で開かれたホームパーティーでの何気ない瞬間だった。

少し酔いも回っていたのかもしれない。手にはカルガリーに来て覚えた赤ワインを持っていた。

部屋を見渡すとメキシコ、ブラジル、韓国、コロンビア、ボリビア、カナダ、ハンガリー、拙い英語、もしくはその国の言葉、色んなものがごちゃ混ぜだった。そしてBGMには、ボブ・マーリーのONE LOVEが流れていた。

 

目の前に広がる風景は、国境線のない世界地図そのものだった。

 

大学を卒業して、「世界が見たい、色んな人に会ってみたい」そんな気持ちだけで異国の地に来てしまった。

周りはみんな就職をして、仕事をしている、不安も大きかった。

決められた社会のレールを人1倍嫌がっていたくせに、それを外れることに人1倍恐怖と焦りを感じていた。

でも、あの瞬間、目の前に広がる光景を見ながら、「この選択は間違っていなかった、カルガリーに来てよかった」

そう思うと、なぜか涙がとめどなく溢れていた。

 

人生は一度しかない。

その道は自分で切り開く。

 

カルガリーでの生活の中で、幾度となくレスリングのおかげで良い経験をさせてもらった。

語学学校では色んな国の留学生と英語を勉強し、放課後はカルガリー大学に移動し、レスリングの練習に打ち込んだ。

語学学校での留学生同士の会話で芽生えた英語に対する小さな自信も、毎回、大学へ練習に行く度に打ち砕かれた。

最初の頃は、練習前も練習中も、そして練習後の更衣室でも全く何を話しているのか分からないし、話にも入れなかった。

1日で1言も発せなかったことさえある。それでもみんな私をかまってくれ、遊びに連れて行ってくれ、色んなことをお世話してくれた。

少しずつ英語も理解できるようになると、色んなことを語った。

一緒に一生懸命レスリングをして、トレーニングをして、酒を飲みながら夜遊びもたくさんした。

スポーツは国境も言語も超える。

 

勝ち負け、強い弱い、が隣り合わせのスポーツの世界の中で、自信をなくすことも、競技を続ける意味、意欲を失いそうになることもあるだろう。それでも「続ける」ということはとても大きな意味がある。

 

あなたの人格を形成し、社会の中ではあなたの大きな武器となる。

 

レスリングを続けてきて本当に良かったと心から感じた。

 

カルガリーで1年間、その後バンクーバーで約7ヶ月。当初、9ヶ月の予定だった生活は結局1年7ヶ月になった。

カナダでレスリングの試合に出たり、小さな大会の審判をしてみたり、小・中学生の合宿にコーチとして参加した。

途中でワーキングホリデービザに切り替えて、ガーデニングの仕事をやりながら、バンクーバーのカナダでもトップレベルのレスリングチームに所属して初めての国際大会にも出場した。

−20度を超えるカルガリーの真冬も溶かしてしまうぐらい心と身を焦がすような国際恋愛も経験した。

1人1人挙げればキリがないほど、多くの人に出会い、支えてもらった。こうして文章を綴りながら1人1人の顔と思い出が脳裏に浮かぶ。

最初に目標とした「語学習得」は私にとってはおまけとなった。

それ以上に、異文化との出会い、交流、そして外国人として生活する感覚、甘いも酸っぱいも苦いも全ての経験が私の人生観を大きく変えてくれた。

「日本地図」だけだった私の頭は「世界地図」にアップデートされ、いつのまにか英語も話せるようになっていた。

絶対にできないと思っていたことは、勇気を出して一歩踏み出したことでできるようになっていた。

「いつかまたここに戻ってくる」そう胸に秘めながら帰国の途についた。

帰国後は広島県内の私立高校で地歴公民科教員として働き始めた。
多くのことを失敗し、経験しながら、素晴らしい職場の先生方とかけがえないのない生徒たちとの出会いもあり、忙しいながら充実した毎日を過ごしていた。

そんな時に偶然出会ったのが現在の妻であるリンジーである。出会ったのは広島のお祭り「とうかさん」。

リンジーはテコンドー、私はレスリングという競技をやっていたこともあり、意気投合し、お互いを意識するようになった。

当時は広島と京都を行き来する関係だったが、将来を見据え真剣に交際し始めた。

2人を待つ明るく輝く未来を信じて疑わなかったあの頃。

当たり前に明日が来て、次の月、年が来ると思っていたあの頃。

 

将来はイギリスかオーストラリアへの移住を真剣に考え始めた頃、リンジーは広島へ移り同棲生活を始めるようになった。

仕事もプライベートも全て順調に、前向きに進んでいたように感じる。

青年海外協力隊に挑戦したり、海外で一緒に暮らしたり、いろんなことを想像していた。

やりたいと思ったことは、挑戦すれば絶対にできると信じて疑わなかった。

しかし、その時は予想だにしなかったことが、少しずつ姿を現し始めていた。

 

2015年2月頃、咳が出始めた。空咳がずっと出る。体調はそこまで悪くないのに咳だけ止まらなかった。

そこから徐々に胸焼け、体のむくみを感じるようになったが、「大丈夫」 そのひとことで全て片付けてしまっていた。

近所の小さな病院で告げられた「喘息」その言葉を信じて疑わなかった。

徐々に胸の動悸が激しくなり、十分に息ができなくなってきていた。夜中に息が止まって何度も目が覚めた。
そこまでなっても私は「自分なら大丈夫だ。これは喘息の症状だ」そう信じて疑わなかった。
今はその時を考えるだけでぞっとする。いつ何が起きてもおかしくないそれほど危険な状態だったと思う。

ある日、意を決して夜間病院へと向かった。

レントゲンを確認した時の青ざめた医師と母の顔は今でも忘れない。私はそのまま緊急入院となった。

診断は国の指定難病である「特発性拡張型心筋症」。あっという間に、BNPは1900、EF15%まで悪化した。

「心臓移植が必要になります」

あの日ほど涙を流した日はない。

私が思い描いていたものは全て脆く崩れ去ったような気がした。全てに絶望して、何が起きたかも分からなかった。

人生が180°変わった日。